2016年 53歳で惜しまれながら亡くなった、平尾誠二さん。
ミスターラグビーの異名を持つ平尾誠二さんは、端正な顔立ちと口ひげがトレードマークの超イケメンラガーマンでした。
イケメンラガーマン、平尾誠二さんが世間を騒がせた「モデル事件」の真相とは?
ラグビー界で活躍しつづけた平尾誠二さんのプロフィールも徹底調査しました。
どうぞ最後までお読みくださいね。
平尾誠二は超イケメン!
平尾誠二さんは、一度みたら忘れることができないくらいのイケメンです。
・きれいな二重まぶたの目
・きりりとした眉毛
・整った鼻
・ほどよくふっくらとした唇
・シュッとした輪郭
・鼻の横にある小さなホクロ
・トレードマークの口ひげ
「鼻の横にある小さいホクロ」とイケメンは関係ないような感じがしますか?
いえいえ。
完璧なまでに整ったお顔にホクロがあることで、平尾誠二さんらしさが強調されていると私は思うのです。
平尾誠二のモデル事件とは?
ラガーマンでありながら、芸能人に引けをとらないほどのイケメンである平尾誠二さんがラグビー界を騒がせた事件がありました。
それが「モデル事件」。
真相を探っていきましょう。
平尾誠二さんは大学を卒業後の1985年、イギリスのリッチモンドに留学をしました。
・イギリスでデザインの勉強がしたかった
・外国で事業を興したり、起業をしたいと思っていた
・自分のラグビーが世界でどのくらいのレベルなのか知りたかった
・大学卒業後はラグビーをするつもりはなかった
これが、イギリスに渡航した理由でした。
イギリスでは、リッチモンドクラブに所属、試合にも出場していました。
その傍らで、デザイン学校に入学するための準備をしていました。
そんな矢先に「事件」が起こります。
平尾誠二さんは、イギリス留学前にファッション誌の取材を受けていたのですが、そのインタビュー記事が、平尾誠二さんがまるでモデルであるかのように掲載されてしまいます。
これは、ラグビーのアマチュア規定に反していたため、日本代表から外された、ということを、平尾誠二さんはイギリスで知らされました。
平尾誠二さんは、ギャラを受け取っておらず、大事になるとは考えていなかった様子。
また、この「アマチュア規定違反」は日本国内に限ったことだと考えていました。
平尾誠二さんは、今後、日本でプレーするつもりはなく、海外でプレーするには問題ないのでは、とも考えていました。
ところが、「アマチュア規定」は国際的な規定であり、海外の試合にも出られないことが分かったため、平尾誠二さんは、理由を説明するために、日本に一時帰国しました。
平尾誠二さんがもう一度試合に出るための条件は、
「日本の一流チームで成績を出す」
というものでした。
イギリス渡航前には数えきれないほどの企業からオファーを受けていた平尾誠二さんでしたが、この事件以後は、全く声がかからない状況でした。
ラグビーのプレーをするためには、なんとしてでも所属チームを探さなくてはなりません。
そこで、平尾誠二さんはイギリスで知り合った、神戸製鋼で取締役を務めていた亀高素吉(かめたかそきち)氏に相談しました。
それがご縁で、神戸製鋼に入社することができました。
もし、「モデル事件」により平尾誠二さんがラグビーを諦めていたら?
日本のラグビーは今のかたちではなかった、と断言できます。
現在の日本のラグビーの特徴、それは、外国の選手がたくさんいることですが、その礎を築いたのは、平尾誠二さんなのですから。
世界にインパクトを与える数々の試合も生まれなかったことでしょう。
平尾誠二のプロフィールを深堀!
それでは、平尾誠二さんのプロフィールをご紹介しましょう。
生年月日:1963年1月21日生まれ
没年月日:2016年10月20日(53歳没)
出身地:京都府京都市南区
身長:180センチ
体重:79キロ
ポジション:スタンドオフ、インサイドセンター(引用:wikipedia)
平尾誠二の学生時代は?
中学生の時、ラグビー部に入部し、初めてラグビーに触れた平尾誠二さんでしたが、頭角をすぐにあらわしました。
中学3年生の時には主将としてチームを引っ張り、京都でも有名な選手となっていました。
長いラグビー人生を送ることになる平尾誠二さんですが、
「ラグビー人生で1番嬉しかった事は、中学時代に父親がラグビースパイクを買ってくれたこと」とのちに語っています。
中学生の時に、どれだけラグビーを楽しんでいたか、がわかるエピソードですね。
高校は、ラグビーの名門、花園高校へ特待生としての進学がほぼ決まっていましたが、そんな時に、伏見工業高校の山口良治監督から熱烈なアピールを受けました。
その熱意に感動した平尾誠二さんは、両親の反対を押し切って伏見工業高校へ入学することを決めました。
高校でのラグビーは中学時代の楽しかったラグビーとは違い、苦しいことも大変なこともありました。
その中で平尾誠二さんは着実に経験をつみ、高校3年生の時には主将として、全国高校ラグビーフットボール選手権大会(花園)で優勝するまでになりました。
その後は同志社大学へ進学、ラグビー部にて、史上初の大学選手権3連覇にも貢献しました。
平尾誠二の社会人時代は?
大学卒業後のエピソードは前出の通りですが、「モデル事件」を経て、1986年から1998年まで神戸製鋼でラグビー選手として活躍しました。
全国社会人大会、日本選手権ともに、1988年から1994年まで7連覇を果たし、平尾誠二さんは3連覇まで主将を務めていました。
入社して2年後には主将になっていたのですね。
ラグビーワールドカップには1987年第1回大会、1991年第2回大会、1995年第3回大会に、日本代表として出場しています。
1998年1月に現役を引退すると、その後は、神戸製鋼コベルコスティーラーズ総監督兼任ゼネラルマネージャーに就任しました。
同じ時期に、日本代表の監督にも就任、史上最年少ということで話題になりましたね。
選手として活躍していても、監督として活躍できない人もいる中、平尾誠二さんは監督としてもその手腕を発揮します。
長年、主将やキャプテンという役割を担ってきた平尾誠二さんは、上にたつ人間に大事なものが何かわかっていたのでしょう。
1999年に開催されるワールドカップ第4回大会への出場権をかけた、アジア予選で平尾ジャパンが優勝、4大会連続でワールドカップ出場を決めました。
ワールドカップ直前の1999年5~7月に行われた、第4回パシフィック・リム選手権では初優勝。
パシフィック・リム選手権とは、環太平洋地域の国が参加する大会で、日本、米国、カナダ、香港、トンガ、フィジー、サモアの7か国が参加していました。
2023年のラグビーワールドカップフランス大会でのフィジーやサモアの活躍に注目が集まりましたね。
フィジカルの強さには目を見張るものがありました。
今後も、この地域の国々の活躍が期待されますね。
平尾誠二さんは、ラグビーだけでなく、日本におけるスポーツ全体のことを常に考えている人でした。
2000年4月には、「NPOスポーツコミュニティー&インテリジェンス機構SCIX」を旗揚げします。
これはスポーツと地域社会の振興を図ることを目的としている組織で、ラグビーチームも持っています。
2000年7月には、アジア選手権で優勝し、5連覇達成。
2000年11月には日本代表監督を退きました。
数々の業績を残してきた平尾誠二さんは、2019年のラグビーワールドカップ日本大会をとても楽しみにしていました。
一試合でもいいから、釜石で試合を実現させたい、という夢を持っていました。
惜しくも2016年に平尾誠二さんは亡くなってしまいましたが、その遺志は多くの人に受け継がれていることでしょう。
平尾誠二はイケメン、モデル事件、プロフィールについてのまとめ
まとめです。
・平尾誠二さんは端正な顔立ちのイケメン
・平尾誠二さんはファッション誌のインタビューにこたえて、「アマチュア規定違反」となった
・平尾誠二さんは中学でラグビーを始めた
・平尾誠二さんは伏見工業高校、同志社大学卒業
・平尾誠二さんは神戸製鋼で現役生活後、監督を務めた
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
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